メルマガ No24
山口市仁保一貫野の藤をニュースで観たので、ゴールデンウィークの間に行ってきました。人が多くて、車が離合するのも往生しました。私のようなミーハーな人が多かったのですね。例年より早く見頃を迎えていて温暖化が関係しているのかもしれないと思いました。
帰り際に、
藤は仁保の宝です。仁保地区自治会
小さな看板に書かれたこの言葉をみて、大切に育てておられる様子が浮かび、気持ちがほっこりしました。
5月に入ってから「ワイルドロンドン」「王室に愛された街 ロンドン・リッチモンド」、「5月7日に英国統一地方選 与党に逆風」等テレビや新聞で英国に関するものが目に留まります。また、4月末にはバンクシーがウオーターループレイスに彫刻を設置したとか。自らが振りかざす国旗で顔を覆い隠され、台座から足を踏み外そうとするスーツ姿の男性の像です。「国家」に結びつく国旗によって視界を塞がれ、足を踏み外すというそのモチーフから、戦争を主導している国々の為政者への皮肉だとか、最近のナショナリズムを批判したものではないかと言われているそうです。見物人が増えてきたので、周囲に安全柵が設置されました。ウオーターループレイスはトラファルガー広場から西に200メートル。これならすぐに行けそうなので、ミーハー精神を発揮して見物してきます。
もう一つ、行きたい、というか、眺めてみたいのが、ジェームズ・ボンドの勤務先MI6です。
ビックベンからテムズ川沿いを上流に歩いて500メートル。橋を渡ったところにSIS(Secret Intelligence Service) ビルがあります。
MI6はSISの通称です。第一次世界大戦が勃発すると、英国政府はそれまで複数の官庁が個別に情報収集していたものを一元的に管理することとし、戦争省情報部のもとで各組織との連絡を担う部署としてMilitary Intelligenceを創設しました。担当内容によってMIの後に番号を付けていて、秘密情報の収集・情報工作を任務とする部署に6番が付与され、現在のSISに繋がっています。
英国政府はMI6の存在を公式に認めていませんでしたが、1994年にようやく、その存在を認めました。英国は以前世界中に領土を有しコントロールしていたわけですから、MI6をネットでさっとみただけでも歴史を動かしたのではないかと思う作戦やエピソードがあります。真偽はさておき、SISビルを眺めて裏の歴史を妄想してみたいと思っています。
作家のイアン・フレミングは第二次世界大戦前にMI6に勤務していて、その経験をベースにスパイアクション小説、「ジェームズ・ボンド」シリーズを書いたそうです。
ジェームズ・ボンドのコードネームは007。ゼロゼロセブン、ダブルオーセブンと言いますが、ドイツ語だとnull null sieben。発音すると、007の眼光の鋭さを感じられませんね。
1962年に第一作目の映画が公開されてから60年あまりの間に25作品が作られました。世界各国が舞台となっていて、1967年公開の「007は2度死ぬ」は日本が舞台になっています。初代のショーン・コネリーからダニエル・クレイグまで6人がジェームズ・ボンドを演じました。今はボンド役の俳優の選定が難航しているそうで、次回作は早くて2028年公開となるようです。
ご存じの方も多いと思いますが、「ミーハー」は「みいちゃんはあちゃん」の略で、日本語の得意技、外来語を略した言葉ではありません。この、すぐに流行に乗る人を意味する英語を調べてみると、
バンドワゴナー(Bandwagoner)
「勝ち馬に乗る」という意味だそうです。ミーハーとはちょっとニュアンスが違いますが、時にはBandwagonに乗ってみませんか。期待していなかったのに心がほっこりしたり、歴史や政治、地球のことを考えたりして、ちょっとだけ、日頃は使わない頭のエリアを使ったり、気付きがあったりしますよ。
メルマガ No23
イングリッシュオークの木に黄緑色の花が咲きました。山口日英協会発足のきっかけはイングリッシュオークの植樹活動でしたので、春を運んできてくれて心躍ります。NHKの番組も春の模様替え、朝のドラマ「風、薫る」が始まりました。看護の世界に飛び込んだ2人のナースの物語です。原作は田中ひかる著「明治のナイチンゲール 大関和物語」。大関和は、1888年の桜井女学校附属看護婦養成所第1期卒業生で、日本初のプロの看護師となった一人です。ナースといえば、ナイチンゲール。クリミア戦争で活躍し、看護の礎を築いたことで有名です。
先日データサイエンスの研修を受けた時に、ナイチンゲールはクリミア戦争での状況を分かりやいグラフにして英国ヴィクトリア女王に直談判したとのエビソードが紹介されました。添付したのが、その「鶏頭図」です。「データの視覚化」なんて21世紀のトレンドなのに、150年以上前に既に実践していたなんて!それで、今回は彼女をちょっと深ぼり。
1820年5月12日、ナイチンゲールは、両親の3年に及ぶ新婚旅行中のフィレンツェで生まれ、フィレンツェの英語名フローレンスと名付けられました。3年も旅行に行いけるのですから、裕福な家庭です。
当時の裕福な家庭では、家庭教師を雇うなどして、子供の教育は自宅で行っていました。ナイチンゲール家も然り。けれども、フローレンスが聡明すぎて、家庭教師では物足りず、父親が教師となり、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、歴史、哲学、数学など、幅広く教えました。上流階級に求められる慈善活動にもフローレンスは同行していて、人々を看護する仕事につきたいと考えるようになりました。17才の時、家の長期改修のため、ナイチンゲール一家は欧州旅行に出かけ、パリの社交界にデビューしています。自分の進みたい道を口にはしませんでしたが、抜け目なく、社交界でも情報収集。美しく、魅力的なフローレンス。頭脳明晰で、強い意志をもち、若い時からスーパーウーマンでした。
この時代は、上流階級の女性が職に就くことや学問に向き合うことに理解を得られませんでした。フローレンスでさえ、自分の意志を貫くことで家族を悲しませたくない、好きな数学の勉強も朝夕の空いた時間にして・・・悩んで一時体調を崩すほどでした。
療養にと勧められて27歳の時に2度目のイタリア旅行に出ます。この時に、何度もローマのシスティナ礼拝堂を訪れ、ミケランジェロの「最後の晩餐」と天井画を見ていたそうです。
2度の長期欧州旅行で、この後、彼女を支えてくれるシドニー・ハーバート夫妻やメアリー・クラークと知り合います。また、社交界でも人脈を広げていました。
1851年、念願のドイツ、ディアコネス学園に見習生として滞在し、1853年にはロンドンの「婦人家庭教師のための療養所」の看護監督に就任します。ここでの運営や経営状況の改善によりフローレンスの名声が高まっていたところに、クリミア戦争が勃発します。南下政策を行うロシアに対し、英国は、インドへの経路確保のため参戦します。翌年、負傷兵の扱いが悲惨な状況とロンドンタイムスの特派員が伝えると世論沸騰。わずか2週間たらずでフローレンスは政府の命を受けてナースとシスター計38名の女性を率いてクリミアの後方基地スクタリへ向かいました。この時の戦時大臣が欧州旅行で知り合い、交流が続いていたハーバートです。
フローレンスの働きは、病院の組織改革や衛生面の改善におよび、負傷兵の死亡率は劇的に減少しました。しかし、フローレンスが負傷兵たちに奉仕したのはこの2年間だけでした。クリミア戦争終結後、陸軍の衛生改革に取り組んでいた最中の1857年、過労で倒れ、後遺症により、その後の50年のほとんどをベッドのうえで過ごすことになりました。それでも150冊の本を書き、手紙を書いて、医療衛生改革に没頭しました。
彼女の多方面にわたる勉学は、物事を俯瞰し、本質をとらえる力となり、得意な数学は統計学に繋がり、社交界で築いた人的ネットワークは、彼女の行くてを支える術になっていました。
クリミア戦争から30年、フローレンスの提唱した看護体制は東洋の新興国まで届いていたのですから、シン・スーパーウーマンです。
メルマガ No22
「コツコツ貯めてコッツウォルズ、英国に行こう!」と始めた英国旅行計画。
参加者も日程も決まり、今は行きたいところをリストアップしています。コッツウォルズ日帰り旅行も候補になっています。それで、今回はコッツウォルズの下調べです。
ロンドンから西へ百キロ移動すると、大学の街オックスフォード。オックスフォードから西側がコッツウォルズ地方で、北端のストラットフォード・アポン・エイボンから温泉の街として発展したバースまで、山口県の半分くらいの面積のところに古い街が点在しています。もっと狭い地域だと思っていました。
古代ローマ時代に生まれた街もありますが、毛織物業が盛んな時期に繁栄しました。コッツは羊の囲い込みの柵や羊小屋、ウォルツは牧草地の丘のことです。コッツウォルズで「羊のいる丘」です。
「囲い込み」は歴史の教科書に出てきましたね。羊毛織物がさかんになり、羊の養育と羊毛の収穫のために地主が農民の共有地や小耕地を買い取り柵で囲っていきました。農地を失った人が都市へと流れ、産業革命時の労働力となりました。
この資本主義の策源地でもある古い街並みの保護に貢献したのは、ナショナル・トラストです。No19で紹介した、作家ビアトリクス・ポターらが土地を保有することで湖水地方の自然を守った活動は、このコッツウォルズの街並みも守りました。
次は、主な街をみていきましょう。
コッツウォルズ北端の街、ストラットフォード・アポン・エイボンは、ウイリアム・シェイクスピアの生まれ故郷です。ハーフ・ティンバーと呼ばれる白壁と黒い木材のコントラストが特徴的なチューター朝時代の建物が多く残っています。
シェイクスピアが晩年暮らした家は残っていませんが、生まれ育った家や妻の生家、母の生家、ロイヤル・シェイクスピア劇場など、2キロ以内に収まっていて徒歩で散策できます。
道路B4632を南下するとチッピング・カムデンです。コッツウォルズの中でも一番古い街並みをみることができます。この近辺で採れる薄茶色の石灰岩、ライムストーンで作った建造物は、太陽の光の加減によっては、はちみつ色になります。
チッピング・カムデンからW44を使って西に行くとブロードウェイです。かつて宿場町として栄えていて、チッピング・カムデンと同じく、はちみつ色の壁の建造物が並んでいます。テデイ・ベア博物館では、アンティークのテデイ・ベアを展示していて、販売もしています。
W44を東へ、W429を通って南下すると、コッツウォルズのベニスといわれているボートン・オン・ザ・ウォークに着きます。両側の川辺には遊歩道が作られているので、散歩したり、パブやティールームでのんびりできます。
続けてW429を南下しW40との交差点を東に行くと、バーフォード。駅馬車が停車する宿場町として栄えた古くからの要衝の街です。1890年創業の英国伝統菓子のお店ハフキンスもありま
バーフォードから南下すると水門の街レッチレイト。セント・ジョンズ橋はロンドン以外で初めてテムズ川に掛けられた橋です。川を利用しコッツウォルズのライムストーンがロンドンやオックスフォードに送られ、オックスフォードの街やセント・ポール寺院の壁になりました。
レッチレイトからちょっと東に行くとケルムスコットです。19世紀に活躍した「近代デザインの父」ウィリアム・モリスはコッツウォルズに魅せられて、ケルムスコットにある邸宅を友人と共同購入しロンドンとの二拠点で活動をしました。今はその邸宅がウィリアム・モリス記念館となっています。
バーフォードに戻ってB4425を南西に移動すると、モリスが「英国で一番美しい村」と賞賛したバイブリーです。もっとも印象深く、“ザ・コッツウォルズ”の風景である「アーリントン・ロウ」の家並みは、羊毛業がさかんになった時に作業場と住居を兼ねて人が住めるように改装されたものです。長屋のような建物に今も人が住んでいます。
バースに辿り着けませんでした。続きはまたの機会に。
メルマガ No21
2月7日土曜日、山口県旧県議事堂を会場として、山口日英協会主催 中学生スピーチ/レシテーションコンテストを行いました。審査員の講評では、外国語習得の大変さと楽しく学ぶことで克服した自らの体験を披露されるとともに、参加した中学生のコンテスト参加への勇気を称えられました。私たちもエネルギーをもらい、清々しい気持ちで帰路につきました。
さて、今日のメルマガは少し長くなりましたが、お付き合いください。
レプリカのバイキング船の周りを数百人が松明をもって行進し、最後に松明を船に投げ込む、140年以上続く火祭り「アップ・ヘリー・アー」が1月28日に行われました。「アップ・ヘリー・アー」は「長い冬の終わり」「春の到来」を意味し、スコットランド・シェトランド諸島のアイデンティティとバイキングの遺産を称えるイベントです。
スコットランドは英国の中で存在感があります。王室メンバーが公式行事でスコットランドの民族衣装を着ていますし、英国というとタータンチェックを連想します。
「タータン」は、彩色されたウールを綾織りにした生地のことで、綾織りにすることで格子模様が生まれるため、タータンチェックともいいます。現存する最古のタータンチェックはこげ茶と明るい緑かかった茶色の2色の単純な格子で、3世紀のものだそうです。
同じ頃、スコット人がスコットランドに侵入しましたが、彼らが持ち込んだのではなく、寒さの厳しいスコットランドで暮らすなかで、温かいタータンを受け入れていったのではないかと言われています。毛布のように寝具になり、腰に巻きベルトで締めて、余った部分で上半身を覆う防寒着になり、プラッド(タータンの大判の布・肩掛け)は、温かく使い勝手のいいマルチタスク品でスコットランド北部のハイランドで千年以上使われていました。
18世紀にはプラッドの上部を除いた、スカート状の衣装「キルト」が考えだされました。チャールズ3世が身に付けているのもこのタイプで、ブラッドの進化形です。
1707年のイングランドとの連合に不満をもつ人々のなかで、スコットランドへの愛国心を示すためにタータンをまとう者が現れ、タータンが政治的な意味を持つようになりました。1715年、1745年の大きな反乱を鎮静化した後、政府は、反乱防止のため、軍人以外のハイランド衣装(ベルトでとめたプラッド)やタータンの着用を禁止し、パグパイプの演奏も禁止しました。この時は、タータンは「反体制」をイメージするものでした。
その一方で政府は、ハイランドの人々で構成する独立歩兵中隊を組織します。当初、司令官はできる限り同じ種類、同色のプラッド、青、黒、緑のチェックのものを着用するよう指示しました。1733年には全員が同じタータンを着用していたという記録があるそうです。キルトの便利さが広まると、プラッドに代わってキルトが導入されました。連隊は「ブラック・ウォッチ:黒い見張り番」と呼ばれ、戦士として世界中に派遣され、その見事な衣装と戦績で名をとどろかせました。戦国時代の武田や井伊の「赤備え」のようなものですね。戦場で同じ武具の軍隊が勢いよく突進してくれば強さ百倍。
連隊が増えるにつれてタータン柄も増え、着用禁止令が適用されないイングランドでは、中産・上流階級の人々がハイランド衣装に注目して身に付けるようになり需要拡大、禁止令を機にハイランドから周辺へと生産工場が移っていたこともあって、結果的にタータンが大量生産されるようになりました。政府がハイランド衣装の着用を禁止し、軍隊を組織したことで、逆に、ハイランド衣装の存続に貢献することになったのです。
18世紀後半、理性よりも感情や想像力、そして手つかずの自然や過去への憧憬を重んじるロマン主義のムーブメントにのって、スコットランドの荒涼とした自然、失われた伝統や文化に注目が集まりました。「反体制」の象徴であったタータンも守るべき伝統へと意識が変化し、1782年には禁止令も撤廃されました。
そして、1822年、国王ジョージ4世のスコットランド訪問がハイランド衣装をフォーマルなものとして認める決定打となりました。
キルトやタータンを着用することは愛国心の証だとして、スコットランド側はタータンを着用するよう指示がだされ、一方、172年ぶりの訪問を成功させるためにスコットランド人の支持を得ることが重要と考える国王もレセプション会場にキルト姿で現れました。会場にいるすべての人がタータンを身に付けていたのですから壮観です。「防寒着」、「反体制」からフォーマルウェアへ大出世です。タータン人気は加速し、スコットランドの、そして、英国全体の象徴になっていきました。
タータンチェックは、ロマン主義のうねりの中で「伝統」へと押し上げられたように感じます。
「アップ・ヘリー・アー」もバイキングの遺産を称えるといいながら140年あまりの歴史で、時期的にもこのロマン主義の潮流から生まれたもの、タータンチェックと同じ「伝統」のにおいがします。
メルマガ No20
2026年、英国旅行の年になりました!
先月のアンケートにご回答くださりありがとうございました。今のところ、ご家族や友人を含めての参加希望13名,検討中1名です。
長州ファイブが留学したユニバーシティ・カレッジ・ロンドンは創立200年を迎え、また、7月に、日英学術交流160年記念イベントが企画されることもあり、七月の終わりから一週間程度の予定です。
顕彰碑、長州ファイブの学籍簿、ウィリアムソン教授夫妻への安部元首相の感謝状などをめぐるユニバーシティ・カレッジ・ロンドンキャンパスツアー、長州ファイブの下宿先、ウィリアムソン夫妻のお墓参りなど、長州ファイブゆかりの場所を訪問したいという希望のほか、定番の大英博物館やウエストミンスター寺院、ハリーポッターシリーズのホグワーツ特急が停車するキングクロス駅9と4分の3番線ホームなど、行きたい場所をリストアップしています。
ハリーポッターシリーズは1997年に「ハリーポッターと賢者の石」が発表され、2007年に第7作の「ハリーポッター死の秘宝」をもって完結した大人気の小説です。2001年に映画化され、その人気に拍車がかかりました。
作者のJ・K・ ローリングはエジンバラのカフェでこの物語を執筆したということですから、メイン舞台のホグワーツ魔法魔術学校がスコットランドのハイランド地方のどこかという設定も納得です。
先日テレビ番組でダラム城と大聖堂を観て、ホグワーツ魔法魔術学校そのものだったので驚きました。それもそのはず、このダラム城の回廊やチャプターハウスはハリーポッターシリーズの映画のロケ地になっていました。ダラム城の外観は、箒に乗って対戦するクィディッチの試合が今にも始まりそうでした。
2001年に出版されたペーパーバックの「ハリーポッターと賢者の石」が手元にあります。英語で読もうといきごんだけれど途中であきらめた友人から貰ったのです。
学校の情景がどのように描写されているのかと、斜め読みしてみましたが、あまり書かれていませんし、挿絵もありません。映像化する時のスタッフは大変な苦労をされたのでしょう。表紙のハリーは素朴で、映画のハリーはキュートですね。
ダラムは、スコットランドとの境から少し南に位置し、昔は対スコットランドの重要な拠点でした。11世紀、ウィリアム1世が防衛のために建てたのが、ダラム城です。ウィリアム1世は、ダラムを治めていた司教に、防衛の一翼を担ってもらうために、ダラム城を譲渡します。
ダラム城は長く司教の邸宅でしたが、1832年創立のダラム大学に1837年寄付され、1840年から城全体が学生寮になりました。ダラム大学は、オックスフォード、ケンブリッジに次いで、英国で三番目に古い大学だそうです。
ん?
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンが今年創立200年なので、ダラム大学より古いはずです。
調べてみると、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンは国教会の反対にあい、学位授与に必要な勅許状を1836年まで得ることができなかったため、ダラム大学のほうが古いとされるようです。
英国には、男性、国教徒、貴族出身を入学条件にしたオックスフォード、ケンブリッジしかありませんでしたが、19世紀に入り、経済的繁栄と中間層の台頭で、新しい学問を学び、研究する大学が求められました。建学の父、哲学者ジエレミ・ベンサムは「すべての人に開かれた大学を」と唱え、宗教、政治思想、人種の縛りなく学生を受け入れる、時代の要請に応えた大学としてユニバーシティ・カレッジ・ロンドンは創設されました。伝統を重んじる国にあって、長州ファイブのような、東洋の若者を受け入れる素地がしっかり出来ていたのですね。
同時代に設立されながら、ダラム大学では、オックスフォード、ケンブリッジとおなじ、「カレッジ」という共同体に所属し、学生、教師ともに寝食を共にするスタイルをとりました。知識だけでなく「紳士としての教養」を育む、全人格的な教育が行われました。
ダラム大学は、「伝統の継承」を、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンは新しいタイプの大学をめざし、「伝統」と「革新」の二つの対照的な大学が同時期に生まれ、発展したというところに英国の懐の深さを感じます。
メルマガ No19
2025年も後ひと月になりました。
明日9日と20日は大安×一粒万日。宝くじを買って英国旅行費を捻出という手もありますよ。
さて、本題。
11月30日の「楽しもう、イギリスの音楽~イングリッシュアフタヌンティ 交流会~」は、
BBCプロムナードコンサート最終夜の「威風堂々」演奏風景をスクリーンに投影して、アルバートホールの熱気を感じ、
厳かな雰囲気で戴冠式を再現、
軽快なリズムで歌とギター演奏のパフォーマンス、
最後にピアノの生演奏のなかで紅茶とスコーン(ジャムとクロテッドクリーム付きでした!)をいただくという、
贅沢な2時間でした。
紅茶はファーラーズのレイクランドスペシャル。会員の方ご提供、大阪万博英国館で購入された紅茶です。
イングリッシュアフタヌンティ チームの皆さま、準備から当日の運営まで大変だったと思います。ありがとうございました。
ファーラーズは、湖水地方の観光拠点、ケンダルにあります。1800年頃からお茶、コーヒー、ココア、精糖を売っていた店をジョン・ファーラーが買いとり、それから二百年以上続く、お茶とコーヒーを販売する老舗になりました。
店舗は、改築した部分もありますが、1637年に建てられた建物が古いまま使われており、保存建築物に登録されています。中に入ると、カウンターの奥の壁に百種類以上のお茶が並んでいます。そのなかで、セイロン茶をベースにしたレイクランドスペシャルは一番人気です。黒いシックな紅茶の缶には「湖水地方の名前を冠したシグネイチャーブレンド。心地よい渋みと甘みが特徴で、ミルクを加えると絶妙な味わいになります。」と説明がありました。この地域の水は日本と同じ軟水で、日本の水に適したしっかりしたブレンドでミルクとの相性がいいそうです。
イングラドの北西部に位置する湖水地方は、氷河期に中央の山々から放射状に氷河ができ、その氷河が渓谷を形成しました。氷河が衰退すると多くの渓谷は水を貯め込み湖となり、丘陵と細長い湖が並ぶという特徴ある景観になっています。グーグルマップを拡大すると、小さな湖が点在し、本当に湖水地方、レイクランドです。
湖水地方は2017年にユネスコ世界遺産に登録されました。特徴ある景観ですが、自然遺産ではなく、意外にも文化遺産です。
10世紀からこの地で営まれてきた農業、羊毛業が、石垣に囲まれた草原と農場を作り、山や森林、湖と調和した景観が広がっています。18世紀に産業革命が始まると、英国では、木炭のために森が伐採され、鉱物資源採掘のために山が削られ、自然が失われていきました。18世紀後半、自然の美しさに回帰し、絵画的な美を追求しようというピクチャレスク運動がおこります。この時、大々的な森林伐採や鉱物開発が行われていなかった湖水地方が注目をあつめ、多くの芸術家や資産家が移り住み、景観に調和する別荘や庭園を造りました。
1895年には湖水地方の鉄道建設反対運動の指導者ハードウィック・ローンズリーがメンバーの一人となりナショナルトラストが設立されました。民間の力によって優れた自然環境を買い取り保全することを目的とするボランティア団体です。
湖水地方といえば、ピーターラビットを思い浮かべますが、その作者、ビアトリクス・ポターはこの地を愛し、「ピーターラビットのおはなし」を執筆しました。ローンズリーと交流のあった彼女は、印税が入るたびに湖水地方の土地や農場を買い、執筆活動の傍ら、自然環境保護に情熱を傾けました。彼女が入手した土地、建物は東京ドーム366個分!ナショナルトラストに遺贈され、今では、湖水地方の三分の一をナショナルトラストが所有しています。
豊かな自然に加え、伝統的な農牧業やピクチャレスク運動によってその自然と調和する景観が生み出されたこと、その景観を法的に保護するという概念と活動へと繋がった、この一連の流れが文化遺産にふさわしいとなったわけですね。
この地を愛した芸術家のひとりが詩人のウィリアム・ワーズワース。私が最初にワーズワースに出会ったのは家の本棚にあった「格言の泉」※です。
その本に収められた彼の言葉は
自然はそれを愛するものの心を裏切ることは決してない。
湖のほとりに立った時、美しい景色とともに、自然の力で洗われた私たちの心も、その湖面に映し出されるのかもしれません。
メルマガ No18
34年ぶりの大相撲ロンドン場所はロイヤル・アルバート・ホールで連日満員の大盛況のうちに終わりました。ケンジントン・ガーデンズに隣接し、赤いレンガの外観、鉄骨のドームにガラス張りの天井で、ボックス席もある楕円形の演劇場です。
山口日英協会の11月30日開催の「楽しもう、英国の音楽~イングリッシュ・アフタヌーン・ティ 交流会~」を準備しているメンバーから来年の英国旅行では是非訪れたいとの要望があがっています。
このホールでは、百年以上前から7月から9月にかけてクラシック音楽のコンサート、BBCプロムナードコンサート(通称プロム)が開催され、最終夜にはエドワード・エルガーの「威風堂々」が必ず演奏されます。7月に英国旅行を計画すれば、このプロムの演目を鑑賞できるので、イベントを準備するなかで英国の音楽に親しんできたメンバーのリクエストには応えたいところです。
このリクエストがあるまでは、ウェストエンドでのミュージカル観劇しか頭にありませんでした。
ご存じのとおり、ニューヨークのブロードウェイと並びロンドンのウェストエンドはミュージカルの本場として有名で、「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」「ミス・サイゴン」はここロンドンが初演です。
意外にも、ロンドンが舞台となっている「マイフェアレディ」はブロードウェイで初演されました。私の中では花売り娘イライザは映画で主演のオードリー・ヘップバーンですが、ミュージカル初演では「メリーポピンズ」や「サウンドオブミュージック」の印象が強いジュリー・アンドリュースが演じています。
大きな帽子と黒白ストライプのリボンがアクセントになったスタイリッシュなドレスでイライザが登場するアスコット競馬場やヒギンズ教授とイライザの出会いの場所で、レディとなったイライザが訪れるも既に自分の居場所ではないことを悟る、そして、愛人との結婚式を控えたイライザの父が「時間通りに教会へ」を歌う、コベントガーデンなど、ロンドンらしいところが舞台になっています。
マイフェアレディの時代には青果物市場だったコベンドガーデンは今ではショッピングセンターに変わり観光名所になっています。私も以前、コベントガーデンで、アンティークのティーカップ、ソーサー、プレートのトリオを購入しました。ゆったり紅茶を楽しむ時に使おうと思っていたのですが、今も65ポンドの値札は付いたまま。レイトフォーリー、1910 シェリーとあります。1910年頃の品物は稀少で、シェリーは1966年に窯を閉じてしまったので今後は一層入手が困難になるなんてネットの記事をみると、当分鑑賞用のままになりそうです。
今、ウェストエンドで上映されているのは、定番の「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」のほか「ウィキッド」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ハミルトン」マイケル・ジャクソンミュージカル」など多くの魅力的な演目があります。そのなかで、映画「リトル・ダンサー」が原作となっている「ビリー・エリオット」は音楽をエルトン・ジョンが手掛け、高いバレエ技術をもった子役たちの踊りは圧巻だそうです。そして、英国北部の炭鉱町が舞台になっていて訛りの聞き取りは英語話者でも難しく、通訳が必要だとか。マイフェアレディしかり、舞台の重要な要素になるわけですから、訛りは英国文化の一部なのだと感じました。
プロムは、当初聴衆が会場をそぞろ歩きながら音楽を楽しんでいたことから、プロムナード(遊歩道)がコンサートの名前に付いたそうです。プロムにするか、ミュージカルにするか、それとも両方か、そして、プロムもミュージカルも、どの演目を選ぶか、きっと出発直前まで、もしかすると、ケンジントン・ガーデンズを散策しながら悩んでいるかもしれません。
メルマガ No17
英国を構成する4つの国にうち、ウェールズで思い浮かぶのは、「ケルト文化」「プリンス・オブ・ウェールズ」くらいで私の知識はiPhone Air級の激薄です。
先月のメルマガ番外編でご紹介した、関西ウェールズ協会の「日本人のためのセント・デイヴィッズ大聖堂バーチャルツアー」に参加しました。
セント・デイヴィッズ大聖堂は6世紀に活躍したウェールズの守護聖人・聖デイヴィッドが故郷の地に創建したウェールズ最大の聖堂です。ツアーと懇談会で2時間ちょっと。外見は堅固な石造りなのに、意外にも大聖堂の天井が木製だったり、サラ主席司祭が説明してくださる音声に聖堂を見学中のお子さんの声が入ったりしているところに親近感がわき、聖デイヴィッドの母、聖ノンのチャペル周辺の散策に心癒されました。翌日紹介いただいたセント・デイヴィッズ大聖堂聖歌隊の「セント・ディヴィットの歌」も聴いてみました。バーチャルツアーで見たステンドグラスの脇を通って澄んだ歌声が高い天井にゆるゆると昇っていくようでした。
今回は英国の音楽を覗いてみましょう。
英国クラシック音楽への一番の貢献者は、ヘンデルです。オラトリオ「メサイア」のハレルヤは、中学校の合唱大会で必ずどこかのクラスが披露していましたもの。ドイツで生まれたヘンデルは4年間イタリアで活躍、25才でハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任しながらイングランドへ向かいます。幸運にもハノーファー選帝侯が英国ジョージ1世として迎えられることになり、ヘンデルもそのまま英国を中心に活躍を続けます。オペラ運営会社「王室音楽アカデミー」の芸術部門の責任を担う一方、王室礼拝堂作曲家にも任じられます。1727年には英国の国籍を取得し、ロンドンで生涯を終えます。
ヘンデルはオペラやオラトリオを多く作曲していますが、多用していたカストラートは現代社会では難しいので、オペラの完全復元は不可能なものがあるとのこと。最近はAIも色々な働きをしますから、完全復元ありえますね。楽しみです。
ヘンデルが1685年にドイツのハレで生まれた翌月、「音楽の父」バッハは、200キロ離れたアイゼナハで生まれました。バッハは生涯、教会や宮廷で過ごし、室内音楽や宗教音楽を極め、近代西洋音楽の礎を作りあげました。片や「音楽の母」ヘンデル(日本で広まったもので、一般的とは言い難いそうです。)は、国際的なオペラ作曲家として欧州を旅し、大衆的な音楽で成功し、生前から名声と富を得ていました。バッハとヘンデルは顔をあわせたことはないのですが、バロック時代の重要な二大作曲家が同じ時、同じ風土の中で育ったのですから、音楽の神様は魔法の息を吹きかけたのでしょうか。
次はエルガーです。彼が作曲した「威風堂々」は力強く壮大な曲なので第2の国歌といわれるのも納得です。1901年に完成、初演されたこの曲は当時の帝国主義国家英国の勢いを映し出しています。エルガーは翌年の1902年に英国王エドワード7世と妃アレクサンドラの戴冠式のために「戴冠式頌歌」を作曲しています。これ以降エリザベス2世まで、戴冠式前に退位したエドワード8世を除いて、国王の戴冠式で演奏されました。2年前のチャールズ3世の戴冠式では、エルガーの作品は「エニグマ変奏曲」と「威風堂々」でした。もちろん、ヘンデルの作品も演奏されています。
11月30日日曜日、山口日英協会は「たのしもう!イギリスの音楽(その1)~イングリッシュ・アフタヌーンティ(交流会)」を開催します。第1部は「エドワード・エルガーの世界 イギリス第2の国歌・戴冠式の再現!」。第2部にビートルズの話題を挟んで、最後はいつもの紅茶とお菓子。ピアノの生演奏のスペシャルギフト付きです。贅沢な秋の一日になりそうですよ。担当グループの皆さんが張り切って準備中です。申込みはお早めに。
メルマガ No16
今日の気温、山口30度越え、ロンドン20度です。9月9日は菊の節句、暦の上では秋なのに、観測史上最高に暑い夏はまだまだ日本に居座っています。イングランドはもう秋なのですね。うらやましいです。
そんなイングランドで、8月下旬から女子ラグビーのワールドカップが行われています。日本はニュージーランド、アイルランド、スペインと同組のプールC、世界の壁は厚く、決勝トーナメント進出はかないませんでしたが、スペインには逆転勝利。ファイト!サクラフィフティーン!
2019年のワールドカップ日本大会がラグビー人気のエポックとなりましたが、それより遡ること4年、2015年のイングランド大会で、史上最大の番狂わせ、日本がワールドカップ2度の優勝を誇る強豪南アフリカに逆転勝ちしました。それまでの日本はワールドカップで1勝しか出来ていなかったのに、24年ぶりの勝利がこの大逆転でした。
29-32で3点のビハインド。試合終了間際に日本はペナルティーを獲得します。ペナルティーキックを選択し同点、引き分けに持ち込むという選択肢もありました。エディー・ジョーンズヘッドコーチはキックを選択するように指示したそうです。しかし、メンバーで話し合いスクラムを選択しました。この時ヘッドコーチは怒り心頭だったとか。スクラムからのトライを決め34-32で世界中が驚く勝利をおさめました。このトライのシーンは何度みても胸が熱くなります。
2023年のワールドカップフランス大会では、イングランドが2019年の準優勝の雪辱を果たすべく準決勝で南アフリカに挑みました。前半12-6でリードし、キャプテンのオーウェン・ファレルがイングランドの得点すべてをたたき出す活躍をみせましたが、試合終了を告げるホーンが鳴った時、スコアは16-15。勝利の女神はこの大会でもイングランドに微笑みませんでした。南アフリカを祝福し、自らのチームメイトを讃えるオーウェン・ファレルの敗戦後のインタビューも胸熱でした。
ラグビーはイングランド発祥の競技ですから、誰よりも優勝を渇望していたでしょうに・・・
ラグビーの源流である「フットボール」は、中世イングランドの各地で、数千人の大人数が手と足を使い、村と村の対抗戦のようなかたちで行われていた競技が起源です。ルールもまちまちで、ほとんどのフットボールは手を使うことが許されていました。
1830年代のパブリックスクールのラグビー校、フットボールの最中にウェブ・エリスという少年が突然ボールを持って走りだしたことがラグビーの始まり、と言われることもありますが、真偽は不明です。1850年代にはラグビースクールフットボールとして人気となり、各地に広まりました。次第にルールが形作られていきますが、ハーフタイムにサイドチェンジする習慣やH型のゴールポスト、楕円形のボールもラグビー校で生まれたものです。豚の膀胱を膨らませて使ったとか、皮を縫い合わせるには最も作りやすい形だとか、どこに転ぶか分からずゲーム性が高まる、など楕円形となった理由には諸説あって、定まっていません。
1863年、ザ・フットボール・アソシエーション(FA)が結成され、「フットボール」のルールが決められました。ここでボールを持って走ることや、ボールを運んでいる相手を引っ掛けてつまずかせることなどが認められなくなり、ラグビーフットボールがFAから脱退することになりました。1871年にロンドンでラグビーフットボール連合が設立され、ラグビー競技が誕生しました。サッカーもラグビーも中世の「フットボール」を起源とする兄弟のような競技なのですね。
19世紀、英国は世界じゅうに植民地を拡大していきます。その植民地でも、知性と技術と体力を養うものとしてラグビーが活用されました。ニュージーランド、南アフリカ、オーストラリアはかつてのイギリスの植民地であり、ラグビーの強豪国です。ワールドカップの優勝国に授与されるトロフィー、ウェブ・エリス・カップはイングランドを含めたこの4か国にしか贈られていません。
ん?ラグビー校の少年の名前が優勝カップに付けられているということは、やっぱり彼がラグビーの生みの親なのでしょうか?
メルマガ No15
7月の終わりに知人宅で野菜、スイカ、マクワウリを収穫させていただきました。夏の味を十分に味わいましたが、その前に、絵手紙にしてみました。
「タイガーメロン勝利」と希望を込めて書いたのですが、まだまだ暑い日が続きそうです。暑い夏の休日は美術館の涼しい空間で絵画鑑賞、はいかがでしょう。
私は、小学生のころから絵が身近にありました。趣味の多かった父は油絵にも手を出していて、家には絵具やイーゼルがありました。父が決めたのか、母がお付き合いで買うことにしたのか、本棚に大きな美術全集が1巻ずつ増えていて、時折めくって、作品を眺めていました。アングル、ドラクロア、ピカソ、ロートレック、ドガなどなど。
しかし、観ていたのは50センチ四方に縮小された世界でしかありません。ホンモノの絵を観たと記憶にあるのは中学生の時の印象派展です。モネの「印象・日の出」はよく覚えています。初めて実物に触れたことで、おそらく私の中での絵画の基準は印象派になり、他の絵を観ても、印象派前、印象派後として振り分けているような気がします。
印象派の誕生には日本の浮世絵が影響したといわれています。今年はNHKの大河ドラマで江戸時代のポップカルチャーの名プロデューサー蔦屋重三郎を中心に物語がすすみ、浮世絵も脚光を浴びています。今は喜多川歌麿が世に出る1790年頃ですので、西洋の画家たちを魅了した大胆なレイアウトやアングル、鮮やかな色彩が生みだされてくるのはドラマではもう少し先になります。
同じ頃の18世紀末の英国は、というと、絵画を含めて文化面では後進国で、後に最も有名な英国人画家となるロマン派のジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナーが美術学校に入学しています。脳内散歩で美味しくビールを飲んだ回で風景画の名手として紹介した画家です。
彼の作品からは、自然を制御できない大きな力をもったものとして捉えていると感じます。産業革命の象徴であるような蒸気船や蒸気機関車も描きいれているのですが、それらの存在は薄く、波や嵐に翻弄されています。そして、空気の流れや湿度を感じるモネの「日の出」にも通じる感触がありました。物足りないのは色彩・・・かな。
ターナーはイタリア旅行でイタリアの明るい陽光と色彩に魅せられ、大気と光の効果を追求するようになったとか。
浮世絵が世界で流行するのは1867年のパリ万博がきっかけですので、1851年に亡くなったターナーは浮世絵をみる機会はなかったと推測します。もし浮世絵を手にしていたなら、あざやかな色彩に挑んだターナーの作品が観られたかもしれません。
資料によると、ターナーは好んで黄色系統の色を使い、緑色が嫌いで極力使わないようにしていたそうです。風景画には山や丘、木が描かれ、緑系の色は必須と思いますので、不思議なものです。
後進の画家のためにとターナーは手元にあった二万点におよぶ作品を国に遺贈しました。そのため、作品の多くは国立絵画美術館やテイトギャラリーで観ることができます。大英博物館、国立絵画美術館、テイトギャラリーが半径1.5キロの中にあり、歩いて移動していくこともできます。ロンドンを訪れた時には、ターナーの作品を観て、黄色系統の色彩とうねる大気を感じてきます。
遡れば、16世紀から17世紀にかけ、英国はスペインとの覇権争いを繰り広げながら植民地を拡大しました。18世紀に産業革命が起こります。技術革新の優位性から手に入れた経済的繁栄がさらに領土を広げ、19世紀には「太陽の沈まぬ帝国」となります。富を得た実業家たちは、芸術活動のパトロンとなり、世界中の美術品を収集しました。大英博物館、国立絵画美術館、テイトギャラリーも、この動きと連動するように設立されていきます。
2020年から20ポンド紙幣の裏面にターナーの肖像が載っているそうです。ネットで確認すると24才の時に描いた自画像が元になっていました。ターナーが活躍したのは、19世紀前半で、英国が経済的繁栄を謳歌し、文化の成熟へと向かう時期と重なります。だからこそターナーの若い自画像が使われたのでしょう。
メルマガ No14
6月30日、ロンドン郊外でテニスのウィンブルドン選手権本選が開幕しました。シード選手が次々敗退し、女子シングルはベスト8の時点で誰が勝っても初優勝です。男子は順当にシナ―かアルカラスでしょうか。MRI検査を受けたシナ―の状況が心配です。降雨による中断や日没によるサスペンデッドなど、選手にとってモチベーション維持が難しい大会です。日本の地上波での放映は夜遅く始まり、気を付けないと夜更かしして翌日の仕事に響き、こちらもコンディション維持が大変です。
1877年に始まり150年近く続いていますが、きっかけはセンターコートの芝生の手入れ用のローラーを新しくするための資金集めだったそうです。1968年にプロ選手の参加が認められましたので、長くアマチュア選手の大会だったのですね。
テニスはもともと社交の場でも親しまれていたため、汗や汗染みは相応しくないとされ、汗染みが一番目立たない白のウェアが推奨されました。今もウィンブルドンではこのルールを守っているとのことです。靴下もシューズもリストバンドも白を基調とすることが定められています。さすが、英国。歴史と文化をにじませます。でも、7月3日にポルトガル代表のサッカー選手ディオゴ・ジョタ氏が交通事故死したとの訃報が入ると、喪章を付けてのプレイを認めるという、懐の深さを見せました。
最も印象に残っているのは、1980年のビヨン・ボルグとジョン・マッケンローの決勝戦です。最初はマッケンロー優勢でしたが、ボルグが調子をあげ、第4セットが7ポイント先取のタイブレークとなりました。体力と気力のかぎりを尽くし、二人とも、今でいう、ゾーンに入っていたんですね。観ている方がしびれました。最終的には18-16でマッケンローが第4セットをもぎ取りセットカウントを2-2にしました。最終セットは8-6でボルグが奪い、ウィンブルドン初の5連覇を成し遂げました。ボルグの後にピート・サンプラス、ロジャー・フェデラーも5連覇していますが、ボルグの連覇は一番の偉業として心に刻まれ、いまだに上書きされていません。
昨年引退したアンディ・マリーは、初出場の時、解説者が「いい選手です。長く優勝者がでていない英国に優勝をもたらす選手になれるのでは」とコメントしたことを覚えています。そう簡単には実現できないと思っていましたが、2013年、今年も38歳でベスト8のノバク・ジョコビッチに勝利し、77年ぶりに英国人優勝者となりました。2016年にもう一度優勝し、オリンピックでも二度金メダルを獲得しました。ウィンブルドン選手権150年記念に合わせてマリー選手の銅像をウィンブルドンに設置する準備がすすめられているそうです。2年後なので、来年の私たちの英国旅行では、見ることが出来ませんね。
さて、今年のテレビ中継をみて何か違うなと思われませんか。目を皿のようにしてボールをにらんでいた方々、線審がいないのです。今年から複数のカメラを使ってボールの位置や軌道を解析する機械判定が全面的に導入されました。それで、選手からの「チャレンジ」がなくなりました。ボールが白線にほんの少しだけ掛かっている映像をみて歓声があがり会場がどよめくというシーンがなくなるのは残念ですが、ロンドンは初日から30度を超えていましたし、試合時間が短縮されて、選手のためになります。
伝統ある大会ですが、色々改革されています。でも、白いウェア着用の伝統は変えないでほしいです。白いテニススウェアで躍動する選手の姿が緑の芝コートに映え、初夏の空気にあっていて美しいので。
この土曜日と日曜日が決勝です。ビヨン・ボルグとジョン・マッケンローの決勝戦を上回るような大接戦を期待しています。
メルマガ No13番外編
No13番外編です。
先月送信したメルマガNo12に添付予定だったバラの「ラ・フランス」をお送りします。1月が過ぎ、今は4つ花が咲き、蕾も3つついてます。宇部日報の「英国タグ付き 閑人閑話」に掲載されていますが、白黒でしたので、カラーでご覧ください。
もうひとつ。
今月の西京シネマクラブの例会(6月15日)がイギリス映画上映なので、お知らせします。
「アーサーズ・ウィスキー」
亡くなった発明家の夫の作業場を片付けていると、ウイスキーを見つけたジョーン。親友のリンダとスーザンとウイスキーを飲んで目覚めると、見た目が20代になっている!そこで、若者たちが集まるナイトクラブに繰り出すも中身は70代のまま。ウイスキーが残っているうちに、もう一度若返って願望を叶えようと3人は、ラスベガス旅行へ。見た目の若さよりも「ありのままの自分」でいることが大切と気づいていくのだが、、、、というお話しです。
映画の詳細はこちらから。
映画『アーサーズ・ウイスキー』公式サイト/ 2025.1.17(金)公開
会場、上映時間は次のとおりです。
会場:山口市民会館小ホール
(市庁舎工事のため駐車場が少ないので、近くの有料駐車場や県立図書館付近の駐車になります。)
6月15日(日) 10:30~, 14:00~, 19:00~ 上映時間は95分
当日券は1800円ですが、前売券の電話予約で1500円になります。
Tel:083-928-2688
メルマガ No13
5月18日、ヒストリア宇部での山口日英協会の総会の後、スケッチ大会、イングリッシュ・アフタヌーン・ティー、スピーチコンテスト、そして英国旅行実行委員会の4つのグループに分かれ、紅茶とスコーンを楽しみながら、これからの活動について話をすすめました。
英国旅行実行委員会は2名の役員を含め8名のメンバーを中心に計画を練っていこうと考えています。
2026年の旅行も、今までの英国旅行と同じく、国王の公式誕生日を祝うパレードTrooping the Colour(トゥルーピング・ザ・カラー)の観覧を組み入れた日程を予定しています。
Trooping the Colourが国王の誕生日の祝賀行事となったのはジョージ2世統治下の18世紀半ばで260年以上も続いている伝統行事です。
カラーは部隊毎にデザインされた軍旗です。兵⼠が遠くからでも自分の部隊を⾒つけられること、兵⼠を団結させることの2つの重要な役割をもっていました。無線通信のない時代に戦場で所属部隊の位置を見失わないためには必要だったと想像できます。戦闘の前に将校がカラーを目立つように動かしながら部隊の前を歩き、⾃分たちのカラーを確認できるようにしました。この動きが、Trooping the Colourとして残っているとのことです。
バッキンガム宮殿近くの近衛騎兵練兵場(Horse Guards Paradeホース・ガーズ・パレード)で、10時にTrooping the Colourが始まります。1300人以上の近衛兵および国王騎馬砲兵隊、300人以上の音楽隊が参加し、華やかな隊列を組んで行進します。
国王は軍服姿で馬に乗り、パレードに参加しますが、体調を考慮し、馬車に乗って参加することもあります。部隊のカラーが兵士たちの前で行進し、国王に敬礼します。
12時半頃には国王と王室メンバーはバッキンガム宮殿へ向います。その後バッキンガム宮殿のバルコニーに国王と王室メンバーが現れ、13時、英空軍による祝賀飛行(フライパス)、宮殿上空を赤・白・青の煙幕とともに飛行する様子を見守ります。
近衛騎兵練兵場のスタンド席での観覧は抽選になりますが、チケット購入できるようです。バッキンガム宮殿バルコニーでの国王と王室メンバー、英空軍の祝賀飛行も見たいのでパレードのルート沿いに朝早くから行くか、迷うところです。
山田理事から2010年に旅行された時の写真をお借りしました。颯爽とした行進と鮮やかな軍服姿は英国の歴史と伝統を感じさせます。
故エリザベス女王のときは6月の第2土曜日に公式誕生日行事が行われていましたが、チャールズ国王が即位されてから、2023年は17日、2024年は15日で、第3土曜日でしたが、2025年は14日、第2土曜日に行われます。2026年の日程はどうなるのでしょう。
今はやりの生成AIに尋ねてみると、
「サイトによっては第2土曜日、第3土曜日と、情報がでていますが、最も確実な情報は、王室の公式ウェブサイトや国防省のウェブサイトで発表されるのを待つことです。通常、前年の年末からその年の初めにかけて公式の発表が行われることが多いので、2025年の秋から冬にかけて、公式情報源を定期的にチェックされることをお勧めします。」
とのことでした。
王室のウェブサイトを覗いてみると、昨年のTrooping the Colourの後に天皇陛下の英国訪問、スコットランドでの「Royal Week」の行事がアップされていました。スコットランドでの行事の締めくくりがブリティシュ・ベイクオフ勝者、ピーターが作ったケーキをカットする場面でした。ピーターはベイクオフシリーズ11での勝者で、日本ではまだ放映されていません。王室行事とお気に入りの番組が結び付き、テンションが上がりました。
来年の英国王公式誕生日行事の日程確定まで少し待たなければいけませんが、第2土曜日となれば6月13日です。来年の今日は出発直前で荷物のパッキング中ですね。
メルマガ No12
「ことだま」て、あるんですね。見たかった「ラ・フランス」、前回のメールマガジン配信の後に出会えました!そして、ゴールデンウィークに我が家で一輪、咲きました。
英国旅行は来年6月、約1年後です。口に出すと実現するなら、ここに行きたい、あれをしたい、と言って2度目の「ことだま」を狙います。
もう一度行ってみようと思っているのはウェストミンスター寺院です。11世紀、ウィリアム1世が戴冠して以来、英国王室との所縁が深い教会です。
1296年、イングランドのエドワード1世が、歴代スコットランド王が戴冠式を行っていた「スクーンの石」を戦利品として持ち帰りました。石を収める木製の椅子を作らせ、イングランド王の戴冠式の玉座とし、スコットランドの権威の象徴をお尻に敷いていたわけです。1996年、「スクーンの石」はスコットランドに返還されましたが、戴冠式にはロンドンへ貸し出されることになりました。一昨年のチャールズ国王の戴冠式の時、「スクーンの石」の移送のニュースや木製の玉座を、もう少し注意してみておけばよかったと思っています。
紅茶のおとものスコーンは、「スクーンの石」が語源とも言われています。オーブンが普及する前の楔型のスコーンは「スクーンの石」に似ています。神聖なものに似ているからか、ナイフを使わず、手で割ってクリームやジャムをつけていただくそうです。
700年ぶりにスコットランドに里帰りした「スクーンの石」は、エディンバラ城に展示されています。見たければ、エディンバラまで行かないといけませんね。
戴冠式に欠かせない王冠が展示されているのはロンドン塔です。
ウィリアム1世が11世紀に建設したもので、高さ27メートルの塔は要塞としての機能と首都の玄関としての機能をもっていました。エリザベス1世も投獄されていましたし、処刑場にもなっていて、権力闘争の血なまぐささが漂っています。その一方で、王室の宝飾品の保管場所でもあります。インドで発掘された「コ・イ・ヌール」や南アフリカで発掘された世界最大のダイヤモンド「カリナン」も保管されています。
次に日帰りで行けるところを探してみましょう。
ロンドンから東へ5キロ、地下鉄のほか、ビックベンからのテムズ川クルーズでもいけるのが、グリニッジです。大航海時代に英国の海の玄関として発展しました。
17世紀に建てられた天文台で観測された恒星図をもとに英国の位置と時間が定められました。1884年に国際会議で本初子午線が通る世界の基点として決定しました。天文台はサセックスに移転し、旧天文台となっていますが本初子午線、経度0度0分0秒の上に立ってみましょう。
西に足を延ばすとブレナム宮殿があります。
18世紀初めのスペイン継承戦争の最中、スペイン・フランスの連合軍に勝利したブレンハイム(ブレナム)の戦いを讃えて、アン女王がマールバラ公ジョン・チャーチル将軍に建設中だった宮殿を下賜しました。宮殿完成までの費用も王室負担でした。英国首相、ウィンストン・チャーチルはこの宮殿で生まれています。バロック様式の宮殿と自然主義的庭園は一日かけて堪能したいです。
唐突ですが、今回話題にした場所の共通点がお分かりですか。
世界遺産に登録されていることです。簡単でした?
メルマガ No11
青空に桜の薄紅色が映えて美しいですね。これから様々な花が楽しめます。ゴールデンウィークの頃には直径8センチほどの白い一重のバラが咲きます。山の入口に自生していたものを家の近くに植えてみたものです。調べてみるとナニワイバラという中国原産のバラでした。江戸時代に日本に渡り、大阪商人が流通させたので、ナニワイバラと名付けられたようです。成長が早くツルを切る度に棘が憎々しいのですが、江戸時代の行商人の姿を想像して、もう少し大切に育てようかと思います。
イングランドの国花はバラですし、バラを解剖してみましょうか。バラをばらばらにするなんて、どうでしょう。
バラの香りには、鎮静、安眠、ストレスの低減、記憶力を高める効果があります。女性には嬉しい美肌効果もあります。香りをかぐと、皮膚バリアの回復を早める効果があるそうです。
バラの花弁にはビタミンC、血液をサラサラにするケルセチンなどの栄養素があるので、ジャムやゼリー、ローズティーとして使われます。バラの実の「ローズヒップ」も、ビタミンCを多く含み、花弁と同様に、ローズヒップオイルやローズヒップティーとして利用されます。
花弁を蒸留してローズオイルとローズウォーターを生成します。ローズオイルは香水に、ローズウォーターは、中東やインドでデザートの香りづけに使われ、化粧水としても利用されます。中世には医薬品・点眼薬にも使われていたそうです。乾燥した花弁をガラムマサラに入れることがあるそうですし、ペルシャ料理では薬味にもなるそうです。
4000年以上、世界中でバラの鑑賞や栽培が行われていますが、美しく香りが豊かというだけでなく、多くの効用があり、バラは超ハイスぺックな「花の女王」です。
バラの長い歴史の中で、その発展に顕著な貢献をしたのはナポレオンの妻、ジョゼフィーヌです。彼女は、世界中からバラを取り寄せ、パリ郊外のマルメゾン宮に植栽させました。人工授粉による育種の技術が確立された時期と重なり、多くの新品種も手にすることが出来ました。ここに集められたバラと新しく生まれたバラが現在のバラの基礎となっています。
1866年、フランスリヨンの育種家のジャン・バプティスト・アンドレ・ギヨーが圃場に生えた実生株を発見し、1867年に「ラ・フランス」と命名して公表しました。この「ラ・フランス」の両親と推定される品種も共に自然界には存在しないもので、このバラが人工のバラ同士の交配から生まれた最初のバラとなったのです。この「ラ・フランス」の出現が起点となり、1867年以前のバラをオールドローズ、それ以後をモダンローズに分けられるようになりました。「ラ・フランス」は淡いピンク色で花弁が多く、花弁の縁は背側に巻き込む、剣弁高芯咲きの花型です。強い香りをもっています。
5月中旬に見頃を迎える山口宇部空港のバラ園。「ラ・フランス」が咲いているかもしれません。オールドローズの品種にも出会えるかもしれません。今年は花と香りをじっくり楽しみたいと思います。
シェークスピアはジュリエットに「名前には、何があるというの?私たちがバラと呼ぶものは、他のどんな名前で呼んでも、同じように甘く香るわ。」と言わせていますが、漢字の「薔薇」は長い歴史と数多くのエピソードを纏ったこの花を表わすにはふさわしいと思いませんか。
バラは薔薇のままで。
メルマガ No10
2月初旬、「英国」の文字に条件反射、山口井筒屋で催された英国アンティーク蚤の市に行き、柔らかいフォルムに魅かれて、椅子を即購入しました。(10秒くらいは迷ったかな。)
担当の方に、山口日英協会で来年6月に英国旅行を予定し英国のことを調べ始めたところだとお話しすると、買い付けのため英国に行くけれど、仕事に追われてほとんど観光地には行けないのでうらやましいと言いつつ、英国のホテル事情など教えて下さいました。強力なツアーアドバイザーに出会えました。
英国庭園でのおすすめをお尋ねしたところ、「リッチモンドパーク」と迷わず答えられ、自身のインスタグラムの写真をいくつか見せて下さいました。
今回は英国旅行の予行練習でこのリッチモンドパークを脳内散歩します。
ロンドンの西南にあるリッチモンドパークへは、地下鉄のディストリクト線を使います。以前英国に行った時はヒースロー空港でオイスターカードを購入し、チャージしながら、ロンドン市内・近郊を移動しました。ロンドン地下鉄開通150年記念の特別デザインでした。今はスマートフォンやクレジットカードをかざすだけのようでこのオイスターカードは不要です。便利ですが、このカードのように旅の思い出になるものも捨てがたいです。ひと駅手前には王立植物園のキューガーデンがあり、頑張れば庭園観光のはしごも出来ます。
駅から15分くらい歩くと公園入口リッチモンドゲートに到着です。955ヘクタール、ときわ公園の約10倍の広さです。13世紀後半には既に公園だったそう。そんなに古くからあるのなら王様が狩猟のため所有していた場所が国民に開放されたのかと推測しました。都市型公園としてはロンドン最大の広さの王立公園ですし、公園内にある「ホワイトロッジ」はジョージ2世の狩猟用ロッジだったもので今はロイヤルバレエ学校のホワイトロッジ校として使用されているそうです。園内には六百頭のシカが生息しています。私の推理も遠からずです。
まずは南に向かい、園内で最も標高の高い「ヘンリー8世の小山」を目指します。先程のゲートからそんなに遠くありません。
車も自転車も通れます。ジョギングする人もいます。ブライドルウェイは乗馬専用です。火は使えないのでBBQは出来ませんし、ラジオや楽器などの音の出るものも禁止されているので、静かで鳥の鳴き声や羽ばたきも聞こえそうです。ゆったり、のんびり過ごせるロンドン市民の憩いの場です。遭遇出来たとしてもこの公園のシカには50メートルより近づいてはいけません。奈良公園のシカとは違いワイルドなんです。
小山に登って東の方向を見ると遠くにロンドンアイ、セントポール寺院、西はテムズ川を見ることが出来ます。
さらに南の方へ歩いてイザベラ・プランテーションに行ってみましょう。ここでは季節ごとの花々が咲きます。春だと、ツバキ、水仙、モクレン、スズラン。そしてシャクナゲにツツジ。ツツジは百種類以上が植えられていて、小道の両脇が色々な赤で刺繍された帯のようです。池や川の水面にツツジの花々がうつり、2本の帯のような景色もきれいです。夏になるとアヤメやユリ。秋は紅葉。化学肥料を使わないので、野鳥も生息していて、どの季節に訪れても楽しませてくれます。
そろそろロンドンに帰りましょうか。リッチモンドゲートから公園を出て、このあたりで一番古いというパブ「ローバック(Roebuck)」に寄ります。一杯のビールを手にして道の向かい側に渡り、リッチモンドヒル・テラスのベンチに座って乾杯。風景画家ターナーが描くテムズ川と丘陵地が目の前に広がっています。
お天気も良かったし、歩いた後でビールも美味しい・・・酔っぱらっていませんよ。脳内散歩ですから。
メルマガ No9
山口2月8日(土)の中学生スピーチ/レシテーションコンテストは参加中学生の熱い思いが雪を溶かしてしまいそうでした。審査時間を利用しての講話、山口大学山田海外研修プログラムオフィサーの「山大×工学部×留学=可能性無限大」は彼らの挑戦する心を刺激する内容で、このコンテスト参加者から次世代の長州ファイブが飛び立つに違いありません。参加の会員の皆様、お疲れ様でした。
さて、こんな胸熱な若者の話で始まりながら、今回は寒い日に胸(体)を熱くするウィスキーがテーマです。というのも、兄寄贈のウィスキーがザ・マッカランとデュワーズだったのです。(まだ、開けていません。)
キリスト教とともにアイランドからスコットランドへウィスキーづくりが伝播したというのが有力です。ウィスキーの製造を担っていた修道院が、16世紀の宗教改革で解散し、蒸留技術が農家へと伝わりました。原料の大麦栽培に適した肥沃な土地、渓谷や山でろ過された水の恵み、ピートの利用、スコットランドの風土はウィスキーづくりに合っていました。ピートは、北欧のような気候のスコットランドで、低温故に植物が完全に分解されないまま堆積し、泥の状態で燃料になったものです。木を使えず、ピートを使うしかなかったのですが、ウィスキーづくりの工程で、大麦発芽後に発酵を止めるために、ピートを燃料として使い、スモーキーな香りが加わりました。
1644年スコットランド王国によってウィスキーへの課税が始まり、1725年に対仏戦争の戦費捻出のために大幅に課税率が上がります。そのため、北部ハイランド地方の山奥で密造が増加しました。密造は販売時期が選べないので、販売の機会が来るまで樽で保管することになり、結果的にウィスキーを熟成させることになりました。
1823年に酒税法が改正されて税率が下がり密造時代が終わるとエジンバラやグラスコーの南部ローランド地方では、トウモロコシも使うグレーンウィスキーを製造します。1846年に創業されたデュワーズはグレーンウィスキーとモルトウィスキーをブレンドしたうえで樽に戻し熟成させるというダブルエイジ製法を行っています。蒸留所毎に異なる味わいや香りを混ぜ合わせ、なめらかな深みのある味を生み出しているそうですが、繊細な味と香りの協奏を想像も説明もできません。
一方、ハイランド地方では従来の大麦麦芽を使ったモルトウィスキーを製造します。ザ・マッカランは、1824年、ハイランド地方で2番目の政府登録蒸留所となります。
スペイン南部の木材を1年間乾燥させ、シェリー樽として3年使用した後ウィスキーを熟成させるために使います。なぜスペインのシェリー樽なのか、というと、14世紀に百年戦争が始まるとフランスからワインが買えなくなり、同じ頃、イスラム教国に奪われた土地をとり戻しつつあったイベリア半島で生産を再開したシェリー酒を代替えにしていたわけですが、このシェリー酒の樽を廃物利用したのでしょう。密造時代にはこのシェリー樽が密造酒用に向けられたにちがいありません。甘く濃厚な味わいとフルーティーな風味を与えることになり、伝統的な製造方法となりました。
もうひとつ、追い風となる出来事がありました。1870年代から1880年代にヨーロッパにフィロキセラ(葡萄根油虫)が広がり、ブドウが壊滅的打撃をうけたのです。ワインやブランデーの製造ができなくなった間に英国はウィスキーの輸出を進めます。ワインが復活する前に広くスコッチウィスキーを浸透させ、1890年代に繁栄期を迎えました。
2024年12月15日、TPP(環太平洋パートナーシップ)への英国加入が発効しましたので、スコッチウィスキーがより身近になるといいですね。風土や偶然の出来事がスコッチウィスキーを進化させましたが、最大ポイントの「熟成」に貢献したのが課税政策だったとは、意外な立役者でした。
メルマガ No8
今年もよろしくお願いします。
お天気に恵まれた三が日でしたが、いかがお過ごしでしたか。
私は宇部市藤河内の茶畑で初日の出を拝みました。気温はマイナス4度。雲ひとつなく、山の際を朱色に染めながら昇る太陽、霜をまとったお茶の葉がきらめき、気持ちもピリッと引き締まりました。
その後、茶畑から北へ、細い山間の道を通り棯小野に向かいました。2023年夏の萩市・萩市教育委員会主催「長州ファイブ 英国渡航160年記念シンポジウム」に出席したおりに頂戴した「近代工学立国の父 山尾家と山尾庸三」(日本外交協会萩支部発行・編集)に山尾庸三の祖父が棯小野から秋穂二島に移ったとあったので、棯小野に設置されている「山尾庸三先祖の地 棯小野」をあらためてみておこうと思ったからです。棯小野は北に平原岳、東は龍岩山に挟まれた小さな盆地です。
帰宅後、もう一度この冊子を読んでみました。山尾家は山口から移築された法泉寺(大内氏の菩提寺)の守り役として1700年頃から棯小野に定住していました。庸三の祖父にあたる源左衛門は棯小野から秋穂二島に移り塩田事業で成功しています。長州藩の四白政策の推進に貢献したわけですね。
庸三の父忠治郎は他家の山尾政吉と原田芳子との間に生まれましたが、彼が生まれて1年で父が亡くなり、実家に戻った母が源左衛門と再婚します。忠治郎は祖父母に育てられますが、祖父も父政吉の死から3年後に世を去ります。祖父は甥にあたる男子と後妻の連れ子を養子にむかえ、家を継がせています。家の存続が最優先の時代ですが、幼い孫のゆくすえも考えたのだと思います。義理の繋がりの中で育った忠治郎は自分の将来に対して肯定感は抱けなかったと想像します。
1825年6月、16才の時に、源左衛門を頼り、棯小野を去ります。二島で母と過したのはわずか3月。芳子は同年9月に亡くなります。長く離れていた母と子はどのように過ごしたのでしょうか。忠治郎は源左衛門の下で懸命に働き、36才の時に家を継ぎます。
1837年、庸三は忠治郎の三男として生まれました。7才から小郡の寺子屋に通い、優秀さを認められ、萩藩士繁澤氏の萩の本家に13才から奉公にあがり、藩校で勉学を続けます。20才で桂小五郎が塾頭を務めていた江戸の錬兵館に入塾します。江戸で航海術を教わったのは勝海舟。忠次郎からの学資を届けてくれたのが大村益次郎。
1862年、高杉晋作、久坂玄瑞とともに、イギリス公使館のやきうちを決行。
1863年、小五郎、晋作とともに吉田松陰の遺骨を世田谷若林、現在の松陰神社に移すなど、英国留学前もドラマチック。歴史的人物の名前がどんどん出てきます。
庸三の真面目で誠実な人柄もありますが、庸三の勉学と活躍の後押しをしたのは父忠治郎です。懸命に働き、手にした地位と財。自らの成功への自信とエネルギーは長州藩や日本の中心へ近づいていく庸三へ惜しみなく注がれたのです。
私が藤河内から棯小野へと抜けた細道は山陽道の割木松に出ます。そこからさらに南へ歩いたのかも。すでに母の具合はよくなかったのかもしれない。16才の青年はどのような気持ちで棯小野を後にしたのだろう。ちょっとセンチメンタルな気持ちで、若き忠治郎に思いをはせました。
2月8日に開催する英語スピーチ/レシテーションコンテストでは、県内の中学生が長州ファイブをテーマにして旧山口県会議事堂で競います。近代日本の礎を築いた長州ファイブについて学び感じたことを英語で伝え自らの心にも刻んでほしいと思っています。
メルマガ No7
昨日の山口日英協会クリスマスパーティーは、会員と一般の方合わせて41名で、鈴の音に先導された三浦サンタさんの登場に始まり、ゲームやオーナメントづくり、クリスマス特別仕様の紅茶を楽しみました。当日、2名の方が新たに山口日英協会の会員になられました。どうぞよろしくお願いします。また、数名の方が英国に行きたいとおっしゃってくださって、がぜん、このメルマガにも力が入ってきました。
英国では、家族親戚が集まりクリスマスを祝います。イブではなく、25日の午後1時頃から皆で食事を楽しみます。メインディッシュは、ローストビーフやローストターキー、ローストベジタブルにグレイビーソース、デザートには濃厚な味わいのプディング。食事が終わる頃にはテレビ放映される国王のクリスマススピーチを皆で観ます。クリスマスツリーは1月6日の公現節まで飾られます。
クリスマスシーズンのお菓子といえば、ドイツではシュトーレン、フランスではビュッシュドノエルが思い浮かびましたが、さて、英国では?と、ネットで調べ、お菓子の本をめくってみると、「ミンスパイ」でした。
「ミンスパイ」のミンス(mince)は細かく切ること。砂糖、ワイン、香辛料、卵、ドライフルーツ、肉の小間切れなど、普段は入れられない食材を入れた、特別な日のご馳走でした。中に詰める具から肉が消え、世界各地の英国植民地から様々な果物やナッツがパイの具、ミンスミートとして使われるようになりました。
試しにミンスパイを作ってみました。アーモンド、くるみ、ドライフルーツ、レーズン、リンゴ、これを細かく刻んで、バター、シナモン、グローブ、ナツメグ、レモン汁、砂糖を入れて中火にかけ、水気がなくなるまで焦げないように混ぜます。火を止めて、ブランデーを加え香づけし、冷蔵庫で一日保存。翌日にパイシートを作って、小さなカップケーキの型に入れて、180度に熱したオーブンで20分焼きました。
クッキー用の型を使って星形のパイ生地をミンスミートの上にのせることになっていましたが、星の型がなかったので、ヒトデのようになりました。ご愛嬌です。
香辛料が効いていて、ミンスミートがいい味になりました。余ったミンスミートはバニラアイスのトッピングにするとか、パウンドケーキに混ぜるなど、使い道があります。
レシピによって、ナッツは、くるみ、アーモンドと色々ありました。アーモンドはアジア西南部が原産で英国では栽培出来なかったので従来はくるみを使い、最近アーモンドを入れるようになったのかと想像しましたが、さすが、かつての「太陽の沈まぬ帝国」らしく、小さなパイに色々な産地の食材が入っていて、ナッツもお好みでよく、決まりはないようです。
英国大使館のホームページには、「英国には、クリスマスから十二夜(公現節)までの間に12個のパイを食べると、新しい年に幸運が訪れるという言い伝えがあります。この時期人々の食卓を飾るのがミンスパイ」とありました。
十二夜・・・確かシェークスピアの作品にありましたね。ちょっと、リサーチ。
嵐で遭難し別れ別れになった双子兄妹。男装した妹が小姓として仕えた公爵と彼が想いを寄せる伯爵家の令嬢、双子の兄の恋をめぐる喜劇で、大団円で終わります。十二夜の時に上演するために作られたようですが、十二夜に関連する台詞はないようです。
東方の三博士は星に導かれ、ベツレヘムへ向かい、幼子キリストの元を訪れ、礼拝し、贈り物を奉じます。その日を記念した祝日が1月6日の公現節です。むかしは日没とともに一日が終わるとされていたため、英国では1月5日の夜にお祝いします。先程の英国大使館の記載では、公現節までなら12個では足りないと思ったのですが、5日の夜とすれば、数が合います。また、ミンスパイの星形のパイ生地は、東方の三博士を導いた星を表わしているのですね。
今回、パイ生地を厚くしてしまって9個しか作れませんでした。クリスマスが近づいてきたら、もう一度、今度は12個作ります。2025年、皆様に幸運が訪れますように。
メルマガ No6
今回は妄想の回です。
10月20日日曜日、空も青く清々しい天候に恵まれ、山口大学で「イングリッシュオークの木スケッチ大会」を開催しました。
参加した子供たちは、このイングリッシュオークがもつ歴史を胸に、ロンドンの街並みやエリザベス女王を、また、自然に思いを寄せて、鳥や虫などの動物、オーロラを描き、幾つもの緑を重ねてオークの木を、これから深まる秋を想像し、オレンジに色付いたオークの葉を描いていて、豊かな発想に感心しきりの一日でした。実物よりも幹を太く根を張った姿を描いた作品もあり、子供達は目には見えない命の力を感じていたのかもしれません。
に
山口日英協会の発会の契機となった「日英グリーン同盟2002」より数年遅れて山口大学のオークの木は植えられました。
2007年、長州ファイブも留学したUCL(University College London)と山口大学が学術交流協定を結び、さらなる交流の進展を祈念して、当時の駐日英国大使グレアム フライ閣下が山口大学までお越しくださり丸本卓哉学長と共に植樹されました。エリザベス2世が1975年に来日された時、ウィンザー城の庭園で育っていた若木を英国大使館内に植樹されたのですが、その木の実生の若木を頂いたものです。女王お手植えのオークの木の子供だと、DNA鑑定もしたとか。英国大使館のオークの木は病気のため既に伐採され、今はその子供が植えられているそうです。英国大使館の2代目オークの木は山口大学の弟分ということになりますね。
エリザベス女王は迎賓館赤坂離宮にも植樹されていました。害虫被害にあい、枝を大きく広げている、という姿ではありませんが、存在感があります。幹の太さから山口大学のオークの木の30年後を妄想し、、、気の長い話です。添付のファイルの左上が2年前に富本幾文山口大学教授(今年山口日英協会に入会くださいました。)が撮影されたもので、右上が本日私の撮影したものです。2年間で、枝を伸ばし、よく茂っています。手前味噌ですが、姿もいいので、山口大学の、いえいえ、山口と英国の交流のシンボルツリーになってくれるのも案外早いかもしれません。
ネットを検索してイングリッシュオークを調べてみようとしたら、ジョー マローン ロンドンの「イングリッシュオーク×ヘーゼルナッツ」のコロンもヒットしました。1994年に創業し、独創的な香りと英国スタイルを象徴するブランドとして世界82か国で展開しているメーカーだそうです。イングリッシュオークのさわやかさとヘーゼルナッツの甘さをミックスした香り?と妄想しています。英国旅行の際にはリーゼントストリート101のロンドン旗艦店に立ち寄ってみましょうか。
さて、今朝のお話しです。数年前のどんぐりから芽が出たのでしょうか、山口大学のオークの木のそばで実生の木が2本育ちつつあります。大学正門から入るとすぐに長州五傑顕彰碑が見えます。顕彰碑の横の階段を上がったところにイングリッシュオークの木があります。オークの木を見上げた後はその子共たちを探してみてください。スケッチ大会の審査委員長、中野良寿山口大学教授が説明してくださったとおりの特徴のある葉の形をしています。スケッチ大会の作品展示も11月11日まで、大学図書館の1階で行っていますのでお早めに。
メルマガ No5
この月曜日に、今年も富山のチューリップの球根を頂きました。そして、火曜日には富山県 砺波市で天皇、皇后、宮家に献上するチューリップの球根6品種4500球の箱詰め式が執り行われたとのニュースを目にしました。改めてチューリップの品種を確認すると、献上される6品種のうち、「黄小町」「とやまレッド」「オレンジファンアイク」、この3種類は私も頂いていました。ときめき倍増、来春が楽しみです。
5月の総会でのプレゼン「やまぐちで『もしトラ』―やまぐちで もしもタイムトラベルができたらー」の最後に遠藤紅八重糸桜を紹介しました。そのあでやかな姿に魅せられて枝垂れ桜を手に入れ、その桜を中心にした庭づくりをもくろんでいます。ところが、猛暑で8月には落葉し、瀕死の状態に。落胆していましたが、9月の終わりに青葉が出て復活し、ほっとしました。植物を育てるのは難しいですが、花や木を選び、バランスよく植えるのは知識もセンスも必要でもっと大変そうです。
庭といえば、英国ですね。公園や庭園でくつろぐ人も庭づくりを楽しむ方も多い印象があります。英国の庭園にふれたのは、大学卒業をまえにした欧州旅行でロンドンを訪れた時です。セントジョーンズパークだったか、ハイドパークだったか、公園の名前は覚えていませんが、さりげなく植えられた植栽に親しみを感じました。パリからロンドンに移動したのでより強く感じたのかもしれません。幾何学的な庭園とは対照的で、自然を大切にしていて日本との共通点を感じたのです。
2026年に計画する英国旅行では、英国式庭園を訪れてみませんか。
ロンドンから日帰りで行けるところを検索し、ざっとまとめてお伝えしようと思いましたが、沢山ありすぎました。
シシングハースト カースル ガーデン
詩人ヴィタ サックヴィルーウェストと夫ハロルド ニコルソンが数十年かけて作り上げた庭園で塔の上から見渡す景色も格別のようです。
キュー ガーデン
1759年の宮殿併設庭園として始まり、世界中の植物が集められています。今は世界遺産。前号でふれたロバート フォーチュンのようなプラントハンターがアジアやアフリカから集めてきたのかと想像しています。
アン ハサウェイ コテージ
シェイクスピアの妻 アン ハサウェイの生家で、もしもタイムトラベルができたら、若きシェイクスピアとすれ違えそう。
「コツコツ貯めてコッツウォルズ 英国へ行こう!」をメルマガのキャッチフレーズにしていますが、もちろん、コッツウォルズにも多くの庭園があります。
検索するほどに数が増えて、情報量が多すぎて渡邉コンピュータはフリーズ中です。富山のチューリップが咲く頃にはリサーチを終えておすすめ庭園を紹介します。
メルマガ No4
8月の終わり、秋の気配皆無の暑さの中、ケニア ナイロビ大学からの交流学生、教員に、浴衣の着付けと茶道体験を担当しました。初めての抹茶は、ちょっと苦手の方、抹茶をケニアまで持って帰りたいという方、反応はまちまちでした。
ケニアは、赤道付近のサバンナをイメージしていましたが、標高の高い湿潤な気候の場所で、茶を生産しています。茶産業は英国からの独立後に急成長したそうです。遠く離れた国ですが、日本と同じ茶畑が広がっていると想像するだけで、親しみが湧きました。
今回は「茶」をちょっと深堀り。
チャノキの学名は Camellia Sinensis(カメリア シネンシス)。 カメリアが付いているということはツバキの兄弟ってことですね。花は白い一重の花びらで黄色の雄しべ、光沢のある葉を思い出し納得しました。葉が小さく低木の中国種と、葉も大きめで高木になるアッサム種の2種類で、製法が異なるだけで、紅茶も烏龍茶も緑茶もこの「チャノキ」から作られます。完全発酵で紅茶、半発酵で烏龍茶等の中国茶、不発酵の緑茶。
中国で生育していたチャノキが日本に伝わったのは、805年最澄が種を持ち帰った時で、12世紀の終わり頃には栄西禅師によって定着したといわれています。ヨーロッパへ伝わったのは17世紀。1600年に英国が東インド会社を設立し、遅れること2年オランダも東インド会社を設立します。1610年オランダ東インド会社が長崎平戸からオランダへ日本茶を持ち込んでいます。ヨーロッパに伝播したのは、中国茶より日本茶のほうが先だったんですね。残念ながら、ヨーロッパの硬水を使うと緑茶は味が弱く、半発酵の烏龍茶が輸出の主流となり、そこから完全発酵の紅茶が生まれました。日本で禅僧が修行の合間の疲労回復のため飲むものであったように、体によいもの、病気にきくとして広まったようです。徐々に階級に関係なく手頃に楽しめる嗜好品としてブームになりました。
「茶」の需要が増大することにより英国はオランダと戦争し、中国との貿易の不均衡がアヘン戦争に繋がります。第一次アヘン戦争の後、中国からインドにチャノキを持ち出したのがプラントハンターのロバート・フォーチュン。ここで初めて英国はインドでの茶の栽培が可能になりました。このロバート・フォーチュン氏、この後、1860年、1861年に日本を訪れ、「幕末日本探訪記」を書いています。興味深いですが、横道にそれてしまいます。
「茶」に戻らないと。
今年の6月、天皇皇后両陛下の英国公式訪問を前に日英協会名誉総裁、三笠宮家彬子さまが毎日新聞のインタビューに応じて、英国王室と日本皇室の交流について述べられた中で、英国文化の「推し」に「クリームティ」を挙げられました。(2024年6月18日付朝刊)
紅茶にスコーン、クロテッドクリームとジャム、この取り合わせを「クリームティ」といい、紅茶文化として知名度が高いアフタヌーンティは特別な日のもので、普段はこのクリームティを楽しむのが習慣なのですね。
中国で生まれた「茶」。味も香りも違うけれど、拡がった先で「茶」を中心に人が集い、話に花がさき、そして独自の文化が生まれています。日本での茶道文化しかり、英国のクリームティしかり。この植物の力はすごいですね。深堀りしきれませんでした。
本日9月9日は「重陽の節句」、菊酒を飲み、栗ご飯を食べて無病息災や長寿を願う日です。菊酒も栗ご飯もないので、矢車菊の花が入っている紅茶「レディグレィ」を飲んでちょっと一息。スコーンではなく、マロングラッセにしようかな。そうそう、紅茶も緑茶も、最後の一滴をゴールデンドロップといい、そこに旨みが凝縮されているそう。ゴールデンドロップまでしっかりカップに入れないと。
メルマガ No3
連日35度越え。こんな日の夕方は、のど越しのいいビールを一杯です。でも今日は、泡の出る飲み物でも、シャンパン、もとい、スパークリングワインのお話しです。
細いグラスに注がれ、ふるふると縁をのぼる泡をみていると、
水の中にいるような気持ちになりませんか。それだけでも少し涼しくなります。
パリから東へ140km、フランス北限のワイン産地、シャンパーニュ地方で生産され、品種、製法も指定されたもののみ「シャンパン」と呼ぶことが出来ます。おなじ製法、品種でも他の地域のものはスパークリングワインです。フランスより北にある英国は、ブドウ栽培は難しいと言われていましたが、温暖化の影響を受け、イングランド南東部でもシャンパーニュに劣らないブドウが栽培できるようになり、ここ20年ほど前からおいしいスパークリングワインの生産地として注目されるようになりました。
40年前にロンドン駐在だった山田禎二さんにその話をすると、当時、英国ではワインはもっぱらフランスから輸入するもので、ヘリコプターで吊るされて運ばれるワインがテムズ川の川岸に降ろされ、時にワインがテムズ川に落ちてしまうこともあったと伺いました。英仏海峡トンネル開通が1994年ですから、輸送も工夫して美味しいワインを飲みたかったわけですね。
温暖化だけでなく、恵まれた土壌がイングランドでのワインづくりの大きな推進力です。イングランド南東部は、かつてはフランス北部と繋がっていたと推定され、シャンパーニュ地方と同じ白亜質石灰質土壌が広がっています。ドーヴァー海峡の白い崖やチョークをイメージしてください。昔々の海洋微生物の化石を多く含む、海のミネラル豊富な地質が、酸味が美しく、ミネラル感豊かなブドウを育み、そして、石灰質の土壌は保水力がある一方で水はけがよいので、ブドウ栽培に最適なのだそうです。
ネットニュースの情報ですが、6月に天皇皇后両陛下が国賓として英国を公式訪問された折、バッキンガム宮殿での国王夫妻主催の晩さん会で、イングリッシュ・スパークリング、ニュージーランド、ボルドー、シャンパーニュのワインが供されたとBBCやデイリー・メールなどが報じたとのこと。
フランスのボルドー地方は12世紀から15世紀にかけてイングランドの支配下にあり、イングランドへのワイン輸出港として栄えていました。評判を上げている自国のワイン、英国連邦加盟国のニュージーランド、歴史的つながりのあるボルドーのワインを揃えるなんて粋ですね。
さて、シャンパンの会を主催されている、わが三浦会長にお尋ねしたところ、会で楽しまれるのはシャンパンのみ。スパークリングワインは飲まれないそうです。シャンパンを熟知されている方にイングリッシュ・スパークリングワインの味を試していただきたいのですが、実現度は10%くらいでしょうか。
2026年、山口日英協会の英国旅行の夕食会、イングリッシュ・スパークリングワインで乾杯! こちらは、実現度99.9%ですよ。
メルマガ No2
何年ぶりでしょうか。5月3日(土曜日)、SLやまぐち号が戻ってきました。新緑の中を薄灰色の煙をあげ山々に汽笛を響かせて走り抜けました。私は「にわか撮鉄」でしたが、多くの鉄男さん、鉄子さんが集まっていました。
鉄男さんの第1号は、長州ファイブのひとり、井上勝と思います。
1863年1月、ロンドンで地下鉄が開通しています。同年秋、長州ファイブが英国に到着した時、地上の蒸気機関車に加えて地下鉄も走っていたのですから腰が抜けるほど驚いたにちがいありません。
1868年に英国から帰国した井上勝は日本での鉄道建設、整備に尽力します。
帝国鉄道協会長に就任した翌年の1910年3月にシベリヤ鉄道経由で欧州に入り欧州鉄道視察を行うも、腎臓病が悪化し8月にロンドンで客死します。青春を送ったロンドンが終焉の地となったことは、井上勝にとっては、ある意味、幸せであったと思います。
JR(当時国鉄)路線で初めてSLを復活させたのが1979年山口線です。日本の鉄道の父の故郷に今もSLが走っていることに縁を感じます。
話は飛んでしまいますが、6月下旬に早めの夏休みをとってフィンランドを訪れました。空港から列車でヘルシンキ中央駅に移動した時、この駅がシベリヤ鉄道の終着駅だった時期があるそうだと友人から聞きました。井上勝がシベリヤ鉄道で欧州へ移動したことを思い出し、この地に降り立ったのかもしれないと、一人で盛り上がり、再び「にわか撮鉄」になりました。
添付の写真がヘルシンキ中央駅ですが、1919年に建て替えられたものですので、井上勝が訪れていたとしたら初代の駅舎です。そこにはロシア皇帝用待合室が設えてあったそうです。ロシアとスウェーデンに翻弄された長い歴史をもつフィンランド、ヘルシンキは、厳しくも豊かな自然の中に古い歴史と洗練されたデザインが融合する街でした。
添付したもう一枚の写真は5月3日のSLやまぐち号です。空に黒い点が見えますが、ドローンでもUFOでもありません。
カラスです。
メルマガ No1
5月25日(土曜日)に山口宇部空港に、バラを見に行きました。沢山の種類の花が咲き誇り、芳しい香りも楽しみました。
イングランドの国花はバラ
由縁は、15世紀、「赤バラ」家紋のランカスター家と「白バラ」家紋のヨーク家が王位をめぐって争った「バラ戦争」。ランカスター家が勝利し、わだかまりを残さないためにヨーク家の娘と結婚し、白バラを取り込むように融合した赤バラの家紋を、新王家の紋章にしたそうで、今でもイングランドを表す国花として使われることになったそう。
さて、半年前のフランスでのラグビーW杯を思い出してください。イングランド代表のエンブレムと愛称も「赤いバラ」です。白いユニフォーム(ジャージ)に赤いバラのエンブレムでしたね。
この「赤いバラ」のエンブレムの由来も諸説あって、
バラがイングランドの国花だから
イングランドのラグビー協会が赤いバラを選択したから
ラグビー誕生の地であるラグビー校の創始者がエリザベス1世から紋章を贈られ、赤いバラの使用を許されて、赤いバラがラグビー校の紋章となったから。
どれが正しいのかわかりませんが、熱い戦いのユニフォームに赤いバラは似合います。
そのイングランド代表チームが日本にやっていきます。
6月22日(土) 国立競技場(東京都)で新生日本代表と戦います。次のW杯でベスト4に入るためにも大切な試合です。お見逃しなく。
キックオフは14時50分!
おっと、本題はバラでした。
この春、数回山口宇部空港を訪れた友人によると、花が満開の時より、蕾の時のほうが香りは強いそうです。ちょっと早めに行くのもよさそうです。秋にもバラは花を咲かせます。今度は山口宇部空港で紅茶とお菓子を楽しみながらバラの花と香りを愛でたいです。